私の研究履歴書③
三浦 房紀
大学院は京都大学大学院へ行くことを決めた。決めたといっても入試があり、それに合格しなければならない。宇多川先輩を訪ねて京大を訪問したついでに土木工学科の事務室に行って、大学院の募集要項(前年度の)をもらった。それを見て愕然とした。その入試科目の多さである。語学(英語・ドイツ語)200点、必修科目(工業数学・構造力学・土質力学・水理学・土木計画学)5科目500点、選択科目(コンクリート工学、道路工学、河川工学、鉄道工学、衛生工学など12科目から、だったと思う)6科目選択300点、計1000点満点である。
「千里の道も一歩から」、と自分に言い聞かせて秋、まず必修の三力、構造力学、土質力学、水理学の勉強を始めた。すでに単位は取っていたが、改めて勉強し直すと本当に理解できていないことを実感した。そして年明けに、土木の友達から入手したという入試問題の一部のコピーを宇多川先輩が送ってくださった。二度目の愕然。まったく手に負えない。それでも「あの防災研究所で研究をするんだ」、という思いで再度「千里の道も一歩から」と自分に言い聞かせて勉強を続けた。
4月になると卒論のための研究室配属がある。中川浩二先生が助教授で京都大学から赴任して来られた。幸い希望していた中川研究室の配属になった。中川先生には、今日に至るまで公私にわたり大変お世話になることになった。
研究室配属が終わって中川先生の研究室をノック、「先生、僕は京都大学の大学院へ進学します。防災研究所の先生を紹介していただけませんか?」キョトンとした中川先生、変わったやつが飛び込んできたな、という表情ながら、「防災研究所か、若手の土岐先生がいいだろう」、とその場で土岐先生に電話をかけてくださった。土岐先生とは土岐憲三先生で、のちの日本だけでなく世界の地震工学のリーダーになる先生である。
5月のある土曜日、防災研究所の土岐先生の研究室を訪ねて行く。180センチを超える長身で、顔は怖い。先生のもとで研究したい、と言うと怖い顔を崩して、優しく「来週もう一度来なさい。それまでにこちらで使っている教科書と先輩のノートをそろえておくから」。
1週間後再び土岐先生を訪ねていく。「今日は柴田先生がいらっしゃるから柴田先生を紹介しよう」。柴田先生とは教授の柴田徹先生で、土の構成関係の世界的な研究者である。ただそのことは後で知ることになる。柴田先生がおっしゃる。「宇部で受験勉強するよりここで勉強した方がええやろ。机を用意するから夏休みこっちに来たら」「はい、そうします」。
4年生の4月、5月、続けざまに私の生涯に決定的な影響を受けた3人の恩師に巡り合うこととなった。先に結論から言うと、中川先生には研究者への道を開いていただき、山口大学に帰ったあとも公私にわたって教えをいただいている。土岐先生には研究の仕方、学生の指導の仕方はじめ様々な面で研究者としてのあり方を教えていただいている。柴田先生は残念ながらお亡くなりになられたが、酒の飲み方、麻雀といたずら、そして人生の味わい方を教えて頂いたような気がする。
大学院受験、大体50%得点できれば合格できるという。京大の学生約120人、他大学から約20名、計約140名が受験、合格者は定員60人、補欠を入れて65人くらい、と柴田研究室の大学院生、のちに先輩になる皆さんから聞いていた。受験初日、雷のなる大雨の中で語学と必修。この日だけで700点。試験問題を見て3度目の愕然。それでもわかるところから解いていったが、到底得点は半分には及ばない。荷物をまとめて2日目の選択は受けずに宇部に帰ろうと思っていたところ、酒井和広先輩が「三浦君、せっかく山口から来たんだから、明日も受けるだけ受けたら」と説得して下さった。この酒井先輩は、道路公団に入り、のちにNEXCO西日本の社長を務める人である。やはり社長になる人は思いややりがある。
気を取り直して翌日の選択問題に取り組んだが、初日の問題があまりにも解けなかったので、すぐ宇部に帰ろうと思ったが、柴田先生はじめ皆さんが、結果がわかるまでここにいたら、と言われるので、そのまま数日柴田研究室の厄介になった。その間、ゴルフの打ちっぱなしに行ったりして過ごした。柴田先生は、「1年浪人したら、ゴルフもうまくなるやろし、合格もするやろ」と気楽に私を励ましてくださる。
合格発表は3,4日後だったと思う。土岐先生が部屋に入ってくるなり、「合格や」。柴田研究室からは私も入れて6人受けて4人合格。なんと私の成績がその中で1番良かったらしい。
こうして京都大学の柴田研究室、耐震基礎部門の大学院生として、土岐先生(当時は助教授)の指導のもとで翌年4月から京都での大学院生活が始まる。
