私の研究履歴書②
三浦 房紀
1976年4月、私は幸運にも京都大学防災研究所の助手になった。今は助手のことを助教と呼んでいる。今は助教に採用されるのも結構ハードルが高く、博士号取得者であることが求められることも多い。ただ私が助手になったころはまだ比較的のんびりしていて、助手になって研究しながら博士号を取得する者も結構多かった。私もその一人である。
その前に私が京都大学大学院へ進学したいきさつを。私が大学を受験する頃はまだ1期校、2期校という入試制度でまず1期校を受験、それに失敗したら2期校を受験するという流れだった。私は母の親元が建築事務所をやっていたこともあって、何となく建築士になりたくて1期校の建築学科を受けたが、見事に化学で失敗。2期校の山口大学工学部土木工学科に受かって入学することこととなった。高校3年生の私は建築も土木も同じように思っていたが、実際に大学に入って大分違うことを知った。それはさておき、当時の大学入試では結構たくさんの科目を受験させられた。国語(現代国語、古典)、数学(Ⅰ、ⅡB、Ⅲ)、英語、理科2科目(物理、化学、生物、地学の中から)、社会1科目(世界史、日本史、地理、公民)である。その後受験生の負担を減らす、ということで大分受験科目が減ったが、これが良かったかどうか、私は疑問に思っている。
公立の高校入試も現在は国語、数学、英語、理科、社会の5科目のようだが、私のころはこの5科目に加えて、音楽、美術、保健体育、技術家庭の4科目が加わって9科目、それも同じ配点であった。お陰で一通り、様々な分野の基礎的なことを学ぶことができたと思っている。受験科目を減らすと受験科目だけ勉強し、その他のことに目が向かなくなる。果たしてこれでいいのか、とはなはだ疑問に思う。受験科目がたくさんあれば否応なしに幅広くいろいろなことを勉強する。実はこれが後々結構役に立ったりする。なによりも人生を豊かにしてくれたと私は実感している。
受験科目を減らせば受験生の負担が軽くなる、というのは大きな勘違いで、負担は軽くならない。投入するエネルギーは変わらず、受験科目数が少なくなれば、得点率が高くなるだけで、後々の人生にとってどうでもいいことまで受験の為に瞬間的に覚えることになる(というのは書きすぎか?)。反対に大事なことがスパッと抜けているような気がする。
話を戻そう。高校では野球部に所属、甲子園を目指す高校球児であったが、私が大学に入学する1970年春、大阪万博があった。その時、鳥飼久美子さんという若くて美しい女性が(現在立教大学名誉教授)、万博の開会式で英語やほかの言語(何語か分からなかった)を流ちょうに使って華麗に通訳をされている姿をテレビで見た。その時思った。「これからは英語だ」。そして野球部からの熱心な勧誘を断って、ESSに入部した。ESSとはEnglish Speaking Societyの略である。これが私の人生を大きく変えた。
相当の後日談になるが、大学での研究者としての国際会議での研究発表、現役最後の6年間は国際連携担当副学長を務め、多くの海外の大学を訪問して学術交流協定締結などの交渉をしたが、学生時代ESSで覚えた英語の表現が大いに役立った。やはり若い時の勉強は一生役に立つと実感している。
大学1年生の時、4年生に農学部の宇多川隆さんという優秀なESSな先輩がおられた。英語の他にもいろいろとお世話になった。宇多川先輩は山大卒業後京都大学大学院へ進学された。私は3年生の時の学外実習で札幌にある北海道開発局河川研究室でひと夏を過ごしていた。すると宇多川先輩から今度札幌に行くからよろしく、の連絡。すすき野でその後のつもる話をして、別れ際に宇多川先輩が、「三浦君も京大に来んか」。酔った勢いで「はい、行きます。」
宇多川先輩は宇治にある食糧科学研究所の研究室に所属。秋にそこを訪ねて行った。そこには後に私が学ぶことになる防災研究所もあった(写真)。宇多川先輩は防災研究所の図書館も案内して下さった。そこには山大で学んでいる教科書を書いた先生の名前が何人もあった。ここで勉強したいと心から思った。

写真-1
現在の京都大学宇治キャンパス 防災研究所は大体楕円で囲んだあたり 写真上部を流れるのは宇治川
(写真は京都大学防災研究所六十年史より)

写真-2
防災研究所正面 ひし形は私が7年間助手として過ごした部屋
(写真は京都大学防災研究所六十年史より)
私は人生で3回は本気で勉強するときがある、と思っているが、それから京都大学大学院へ入学するための受験勉強を始めた。これが私にとっての最初の本気の勉強である。2回目は博士号取得の時。3回目は大学教授の最後の5年間と、いまだに続いている衛星データを用いた防災の研究。
京都大学大学院受験にはまた人生のドラマがあった。そのことは次の回に。
