山田堰
中国水工環境コラム第 50 回(2024 年 5 月)
執筆者:中国水工(株)環境アドバイザー 大田啓一
阿蘇山外輪山の一郭を源流とする筑後川が福岡県に入って間もなく、「くの字」に曲がったところに「山田堰(やまだぜき)」はあります。そこは福岡県朝倉市山田。山口市からだと、新幹線と鹿児島本線普通電車で二日市駅まで行き、バスに乗り換えます。バスが進む広大な筑紫平野の一部、650ha の農地を潤しているのが山田堰から運ばれてくる農業用水です。
堰は川の水位を上げて、水の一部を堰の傍の用水路に導くためのものです。現在のコンクリート製の堰は丈夫で、流れに対して垂直に築きますが、山田堰は流れに対して20 度傾けて築かれています。水の勢いをいなす、伝統的な「斜め堰」です。また、コンクリートのない時代のものですから、石を川底に敷き詰めて水位を上げる「石張り堰」になっています。幅170mの石張りが、川の端から端まで140mも続く光景は圧巻です。これも伝統的な技術です。
石張り堰には「舟通し」と呼ばれる大きな水路が2 本あり、多くの水はここを通って流れ下ります。一部の水が川の曲がり角の右岸に沿って進み、取水口に入っていきます。その手前には「砂吐き」水路が1 本設けられ、土砂の堆積を防いでいます。計3 本の水路の角度は、水路を流下した水が堰の下方で互いにぶつかり合うように設計されています。水の勢いを削ぐための工夫です。このような土木工学的な知恵が詰め込まれた堰、それが山田堰です。
山田堰は1790 年にできました。工事を担当したのは下大庭村(現在の朝倉市)の庄屋、古賀百工です。彼は度重なる干害から百姓を救うために、黒田藩の許可を受け、全財産を投じて水路と山田堰の大工事を進めました。百工は手作りの道具で測量し、百姓衆と一緒に働いて、地元の石材を使いながら、安価で、補修・改修が可能な用水路と山田堰を完成させました。百工が81 歳で没する8 年前のことでした。
この山田堰に詰まった先人の知恵をアフガニスタンで活かしたのが中村哲医師です。平和医療団日本の医師として現地で治療にあたりながら、病気の根絶と生活の安定のために砂漠の農地化を計画します。電気もコンクリートも無いなかで、地元の石材と人力を使って取水堰を築くうえで山田堰は格好のお手本となりました。中村医師は2003 年に工事を始め、2019 年に亡くなるまでに9 か所の取水堰を造り、水路を延ばして16500ha の砂漠を農地に変え、65 万人の自活を可能にしました。
私が山田堰を訪ねた先月10 日は、前日までの雨で川は増水し、水は水路のみならず、石張り堰全面を流下していました(写真)。取水口の近くには中村医師の顕彰碑が建立され、座右の銘としていた「一隅を照らす」が刻まれています。堰の直接的な恩恵は一地方のものですが、「石張り式斜め堰」の知恵と人の生き方は後世への輝かしい遺産となっています。