南蛮樋
中国水工環境コラム第 49 回(2024 年 4 月)
執筆者:中国水工(株)環境アドバイザー 大田啓一
山口市を流れる椹野川(ふしのがわ)の河口にある同市名田島の平地は、その大部分が干拓によってつくられました。干拓は江戸時代から数度にわたって行われ、1930年に終了しています。干拓工事は遠浅の海に堤防(潮受け堤防)を築き、樋門を設けることから始まります。1774 年(安永3 年)の大掛かりな干拓で干拓地は約100ha に広がりました。そのときにつくられた樋門が「南蛮樋」で、国の史跡です。市の文化財保護課による現地見学会が3 月初めに開かれましたので行ってきました。
樋門の役目は、満潮時には門扉を下げて海水を止め、干潮時にはこれを上げて水路の水を海に流すことです。南蛮樋の門扉は厚い木の板でできていました。その上端に付けたロープを樋門の上の回転軸に巻き付け、軸をハンドルで回して上下させます。今の「ロクロ」の技術ですが、当時はこれを「南蛮」と呼んだのが南蛮樋の名前の由来です。南蛮樋は堤防の2 か所に設けられ、片方は3枚の扉が横に並ぶ3 挺樋、他は4枚の扉を持つ4 挺樋です。門扉の上げ下げは「樋守人」が担当していました。
南蛮樋の門扉やロクロは現存しませんが、樋門の壁や底面、水路の壁、周辺の土手には見事な石組みが残っています。石は全て花崗岩(御影石)で、門扉を支えた2m超の柱も花崗岩です。近くの秋穂で切り出されたものです。石組みの技術は高度で、樋の壁面は直方体の石を平らに積み重ね、城の石垣の如き外観を呈しています。一方、水路や土手の石垣は四角い石を斜めにして積み上げ、民家の石垣のような、菱形の連なった外観となっています。市の文化財保護課は、城の石垣が築ける石工集団と、民家の石垣を手掛ける石工集団とが共同作業したのであろうとみています。
わが国の干拓地としては八郎潟や印旛沼、諫早湾などが有名ですが、最も広いのは諫早湾を含む有明海周辺域で、250km2 です。干拓の主な目的は水田の造成であり、これによって水田面積は拡大しました。しかし、今日、農業をめぐる国内や地域の状況変化にともなう深刻な問題も抱えています。名田島では農業法人を組織して連携し、機械化によって二毛作などの農地の高度利用を実践しています。模範的な農業地として高く評価されていますが、全国的にみると珍しいことです。農地拡大と矛盾する減反政策、農業の担い手不足、高齢化などによって、干拓地においても耕作放棄地が出ているのが現状です。展望のきいた農業政策が切望されています。
ところで、干拓地については、潮受け堤防と樋門の設置のほかに、用水をどのようにして確保し、どのようにして農地に配るかということも大事な点です。これについてもわが国には素晴らしい技術があり、干拓地に限らず、広く農地の灌漑に利用されています。海外でも参考にされています。次の機会にそれを紹介しましょう。