生物活性天然物
中国水工環境コラム第 16 回(2021 年 7 月)
執筆者:中国水工(株)環境アドバイザー 大田啓一
「台湾の膨湖島ではネ、魚を獲るときに道端の草を水の中で叩くのだそうですよ。で、しばらくすると魚が浮いてくる。それを網でガバッと獲るのだそうです。君はその植物の毒成分を研究してください。そうそう、指導は新任の助教授の先生にお願いしてありますからネ。」とまあ、そんな説明を聞いて私は教授室を後にしました。こうして私の大学院生活は「ガバッの成分」とともに始まりました。56 年前の名古屋大学でのことです。その時に指導を受けた先生には今でもお世話になっています。
膨湖島は台湾海峡の東にあり、草本植物キツネノマゴが自生しています。この植物の汁液を水中に投じ、浮いてくる魚を獲るのが伝統的な漁法です。汁液は魚には強い毒ですが哺乳動物には作用しないので、浮いた魚を人間が食べても大丈夫です。その毒成分を抽出・分離された台湾大学の先生が名古屋大学に化学研究を託され、それが私に回ってきたのでした。幸いにも私はそれで学位を得ることができました。
私がいたのは農薬化学研究室でした。同じ研究室の博士課程の先輩は、つる植物カミエビの昆虫抵抗成分(昆虫に食べられるのを防ぐ物質)を研究していました。修士の先輩は人尿の中にある植物成長促進成分を、また別の先輩は葡萄が放つ昆虫誘引物質を追っていました。一年下の後輩はイスノキの葉にできる虫こぶの原因物質を研究していました。また後に研究室に招かれた先輩のテーマは菌類がつくる植物成長調節物質でした。それぞれ材料は違いますが、ターゲットは生物の成長や行動や生理反応に作用する物質でした。このような物質は生物活性天然物と呼ばれています。
生物活性天然物の魅力は、新しい農薬が生まれる可能性を秘めていることです。事実、昆虫誘引物質からは特定の害虫のみを引きつけて駆除する農薬がつくられました。また植物ホルモンなどの成長調節物質は、発根の促進剤や葡萄の種なし化剤として実用化されています。さらに昆虫抵抗成分からは害虫の食害を防ぐ農薬が開発中です。これら新しい農薬は、幅広い生物を殺傷した昔の農薬とは異なり、対象害虫や病原菌の選択性が高く、他の生物に影響せず、また速く分解するために作物や土壌に残留し
ないのが特長です。
自然界には農薬化学者がまだ手にしていない有望な成分が潜んでいると考えられています。薬学の分野でも新薬開発に向けて生物活性天然物が研究されています。このような研究が進んで、理想的な農薬や新しい医薬・健康薬が開発されるためにも、その後ろ盾となる豊かな自然と生物多様性を維持していく必要があります。
ところで、台湾海峡の名前は台中関係が険しくなると報道に登場してきます。私はそのたびに膨湖島とキツネノマゴを想い出し、周辺の平穏を祈ってしまいます。
